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先生からのメッセージ

反省しても後悔せず

明治大学新入生向け冊子『思索の樹海』
1997 年4 月号

by 大石芳裕

私は25歳で大学一年生になった「落ちこぼれ」である。勉強は嫌いだ。好きなことをやっているときが一番楽しい。遊びは何でも好きだが、今はテニスに凝っている。

中学時代は卓球、高校時代はサッカーに狂った。高三の夏休み以降は応援団長、結婚問題、家出してのヒッチハイク日本一周と忙しかった。大学進学を考えたのは卒業前の一月。理由は失恋したから。運良く現役で大学に入れたが七十年安保の時で数ヶ月間は講義が開かれなかった。これ幸いにサッカーに専念した。酒もタバコも麻雀もパチンコも覚えた。時々、警察にもご厄介になったが理由はよく覚えていない。講義が再開されても自分がどのクラスにいるのかさえ知らなかった。わずか五年でよく卒業できたものだ。

卒業しても風太郎だった。母が「一年でいいからまともに就職して」と懇願するように言うのを振り切り、「俺は俺の道を行く」と肩で風を切っていた。本当は何をどうしていいのかさえ分からなかったのだが。父に勘当され、家を飛び出し、風太郎生活が始まった。食い扶持だけを稼ぐと後は怠惰な生活に埋没した。「何かしなければ」、「何かができるはずだ」と思うのだが生活に追われ流され一日々々が過ぎていく。「俺はこのまま一生を終わるのか」と思うと情けなかった。

人生が変わったのは喜界島に行ってから。奄美大島群島の一つ、喜界島は周囲四十キロぐらいの小さな島だ。そこの中学三年生二人を教える「住み込み家庭教師」として、怪しげな教育団体から派遣された。もちろん軽いバイトのつもりだった。落ち込んでいたので「生活を変えよう」という気持ちもあった。昼は本を読んだり、海岸を散歩したり、狭い島内をグルグル回ったりしていた。夕方から教えるわけだ。しかし、いいかげんな生活をしていた私がまともに教えられるわけがない。教えられる彼女たちこそ迷惑な話だ。三ヶ月後、心を開いてくれた二人から散々からかわれたものだ。そのあと二人の成績は格段に向上した。私にも自信らしきものが生まれた。彼女たちが私の先生だったのだ。ちょうどその頃、エドガー・スノーの『中国の紅い星』を読んだ。毛沢東、周恩来に次ぐ中国共産党の大立者であった朱徳は四十歳位まで阿片中毒の放蕩児だったのだ。「俺だってやり直せるかもしれない」ぼんやりそんなことを考えた。彼女たちの入試が終わって島を出るとき、地元の人たちが羊を潰して歓送会をしてくれた。南洋の独特のリズムと囃子に乗って踊る人たちの姿が今でも脳裏に焼き付いている。歓送会が終わる頃、教え子の親が近づいてきた。「先生。実はね、先生の前に何人もの家庭教師が来たのよ。でもみんな二週間もいなかった。先生は六ヶ月もいてくれた。やり直したいんでしょ。奨学金を出してあげるから頑張んなさい」。

三畳一間のアパートで受験勉強を始めた。当初は大学院を受けるつもりだったが、「どうせやり直すなら大学一年から同じ経済学を徹底的にやろう」と大学受験に切り替えた。金がないので予備校にも行けない。参考書を各教科一冊ずつ買ってきて大学図書館とアパートでにらめっこだ。父が肝臓癌で長くは生きられないことを知ったが、もう歯車は止められない。奨学金は六月まで頂戴し、夏休みはバイトした。近所の塾の先生が「一時間で五千円」という破格の条件で雇ってくれた。金を稼ぐのと、同い年の美しいお嬢さんに会うのを楽しみに夏休みの午前中は塾で過ごした。もちろん昼飯も。その塾では夏休み以後も時々食事をご馳走になった。大学は通るだけではだめだった。トップの成績で合格しなければならない。金がないので「入学金免除、授業料免除」が絶対条件なのだ。合格発表の時は沖縄の西表島で友人と遊んでいた。この調子で大学院も受験し、入学金も授業料も払っていない。日本育英会から奨学金をもらったが、卒業後教育職に就いたので返還免除されている。金はなくてもなんとかなる、ということも学んだ。

医者から「三ヶ月の命」と言われていた父が、約三年頑張って大学二年生の終わりに死んだ。ちょうど期末テストの直前だった。好きな先生の科目もあったが勿論全部パスした。父は尋常小学校卒でヒラの国鉄職員だった。助役試験を受けるよう上司に勧められたが「助役になると転勤があるので子供のために断った」と言っていた。本当のところはどうだか分からない。そう言えば父から「勉強しろ」と一度も言われたことがない。自分が勉強嫌いだったので子供にも言わなかったのだろう。その代わり「働け」とはよく言われた。小さな田畑があったので休日はいつも野良仕事の手伝いだった。普通のサラリーマン家庭の友達が休みの日に遊んでいるのがものすごく羨ましかった。嘘をついて野良仕事をさぼり、野球やビー玉遊びに一日興じたことも度々ある。頑固な父からはひどく怒られ、殴られた。大きな岩のように頑強だった躰がススキのようになって父は死んだ。父は私が一回目の大学へ入るとき国鉄を定年退職し、私の学資を稼ぐためガソリンスタンドの店員になった。「若い店長によく怒られる」と言っては酒を飲んでいた。ストレスと酒が父の命を縮めたのだろう。そうまでして稼いでくれた金で学ばなかった私は親不孝者だ。

大学に入学した今でも、人生の目標を見つけだせずにいることは恥ずべきことではない。人にはそれぞれ個人差があるものだ。小学生の時から弁護士になろうと努力してきた人や、高校生の時に公認会計士になろうと考えて大学を選択した人は立派である。そのまま邁進してもらいたい。しかし、そうでない人もいいではないか。人生の目標を見つけるのがたとえ遅くとも、それはそれなりに自分の人生である。ただ、人生の目標を探し求めることは大切だ。メーテルリンクは『青い鳥』で幸福が身近にあることを書いただけではない。幸福は探し求めて初めて見つかるものだと伝えたかったのだ。宮本武蔵の『五輪書』には「反省しても後悔せず」というのがある。後悔は過去への嘆きであり、反省は将来への糧である。過ち多き私の半生だが、後悔はしていない。反省しつつ、次の目標・幸せを探し求めたいと思う。

昔からの友人は「大学の先生にもっとも相応しくない奴が大学の先生になった」と笑う。自分でもそう思う。マルクスは大学の先生になれなくて新聞記者になったそうだが、私は新聞記者になれずに大学の先生になった。でも良かったと思う。私はこの仕事が好きだ。なによりも人間が好きだ。勉強は嫌いだ。好きな研究をしたい。学生諸君とも「同好の士」になれればいいと思っている。

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